学習塾ブログ / 江戸時代の人は江戸幕府をなんて呼んでいたか?

2018年11月21日

江戸時代の人は江戸幕府をなんて呼んでいたか?

学校で歴史を勉強すると、教科書に「老中、勘定奉行」などの役職の載った「江戸幕府のしくみ」なんて図が出ている。生徒さんも当然、江戸時代の人も江戸幕府を幕府なんて呼んでいたのかなと漠然と考えているかもしれません。しかし、これは大きな間違いですね。鎌倉時代では「幕府」は「吾妻鏡」(鎌倉時代に関する基本史料のひとつ)によれば、将軍の屋敷を「幕府」と呼んでいることが知られています。政治のしくみではなく建物そのものですね。

江戸時代、各藩(「藩」に関しては註参照)の侍が江戸幕府を何と呼んでいたかというと、それは「公儀(こうぎ)」です。江戸の庶民は「公方様(くぼうさま)※将軍のこと」で代用していました。町名主や偉い商人などが改まった席では「御公儀(ごこうぎ)」を使ったかも知れませんが。大体、江戸の町民にとって幕府の重役なんて全然無関係だから、むしろ町奉行所が身近な幕府そのものでした。日本の中央政府を何と呼ぶかということなど問題外のことだったでしょうし、そもそも中央政府って発想がなかったかと。

多くの人が意外に思いますが、天皇という称号も長い間使用されてこなかったことが知られています。(63代冷泉院~119代後桃園院まで何々院と呼ばれていました。平安時代中期から江戸時代末期まで、実に875年間。)

光格天皇(明治天皇の曾祖父)が死後、「天皇」称号で諡(おくりな)されたときは、古代的なその響きに宮中では驚きを持って迎えられたらしい。

しかし、「幕府」という名称を日本の中央政府の意味で使用し始めたのは、幕末の藤田幽谷、東湖ら水戸学の人たちらしいので、そこにはある種の見識があることも分かります。水戸学的大義名分論からすれば、征夷大将軍はあくまでも朝廷の許可のもとに存在している役職であり、真の「公儀」は朝廷なんだという思想。江戸幕府の政治支配の正当性を相対化する意味での「幕府」という呼称。この水戸学の思想が尊皇攘夷運動となり幕末に爆発します。

まあ、中学生からすれば、「室町幕府のしくみ」「江戸幕府のしくみ」などと麗々しく教科書に出てますから、当時もそういう名称は使用されていたと思うのは無理もないことですね。しかしそれは「薩摩藩屋敷」なる看板が歴史的には嘘っぱちであったように、間違いな訳です。

ちなみに江戸時代は役所でも大名屋敷でも看板は出していません。だから時代劇の南町奉行所なんて門前の看板はでたらめなんですね。外部者には巨大な江戸の町は大変分かりにくいものだったでしょう。とりわけ大名屋敷などは、どこも似たような門構えでどこがどこやらさっぱり分からない。江戸切絵図が必要だったわけがよく分かります。

註 【藩】 これも江戸時代には一般的にほとんど使用されたことがなかったことが分かっています。新井白石に「藩翰譜」という著書がありますが、この表現などは白石が中国風のきどったペダンティックな表現を使用している例で、一般の武士には「ハッ?」という感じだったと思います。「家中」「鍋島家」のような言い方が普通でした。ですから、時代劇に出てくる、大名の家来が「我が藩の窮状」などの表現をすることはありえないのです。

ベストの広場11月号
代表エッセイより